(助けてっ! 誰か助けて!)
猿ぐつわを嵌められて暗い部屋の床に転がされているミカエラは、声を出せないまま心の底から願った。
此処が何処なのかも分からない。 夜会会場から誘拐されたミカエラは、長い黒髪をハーフアップに整えて華やかな金色のドレスを着ている。 ドレスが華やかな分、床に転がされている現状が余計に惨めで残酷だとミカエラは感じた。(あぁ、わたくしは王太子の婚約者だというのに誰も助けにきてくれないの? わたくしが悪役令嬢だから? でもわたくしが殺されれば困るのは、婚約者であるアイゼルさまなのに……護衛は何をしているのかしら?)
その時だ。
心細さに震えるミカエラの耳に、ガシャンという派手な音が響いた。 ミカエラを閉じ込めていた部屋の扉が粉々に砕け飛び散る。 (眩しい!)いきなりまばゆい光が室内へ押し寄せるように差し込む。
目もくらむような眩しい光の中には、金色の髪をなびかせるアイゼルの姿があった。 (なぜアイゼルさまが⁉)混乱するミカエラを、青い目がとらえる。
彼女を見たアイゼルは一瞬だけ痛ましげに表情を歪めると、キュッと口元を引き締めた。「もう大丈夫だ。安心して」
アイゼルは彼女の傍らに跪くと、ミカエラの口元から猿ぐつわを外した。
自由になった口で、ミカエラは疑問を言葉にする。「アイゼルさま……なぜ、此処へ?」
アイゼルはミカエラの拘束を解いて助け起こしながら、どうということはないといった調子で平然と言う。
「愛する君が消えたんだ。必死になって探すに決まっているだろ?」
「……え?」ミカエラは呆然と、少し怒っているような、拗ねているような様子のアイゼルを見つめた。
(愛する君⁉ アイゼルさまが、愛する君? え?……それは本当に、わたくしのことですか?)助け起こされながらも、ミカエラがそう思うのも無理はない。
可愛げが無い、不気味、無能。
そして悪役令嬢。 それがミカエラの評判だ。 婚約者であるアイゼルも、その評判を肯定するかのように、ミカエラへ冷たく当たった。(アイゼルさまは、変な呪いにでもかかっているのでは?)
ミカエラがそう思ってしまうほど、アイゼルの彼女に対する態度は酷かった。
だがアイゼルにも事情がある。「そこまでポカンとした表情をされるとは思わなかったな。これでも君を守ろうとしていたんだよ。ちっとも伝わってなかったみたいだけど」
「きゃっ⁉」アイゼルは照れ隠しするように顔を背けながら、ミカエラを横向きに抱き上げた。
ミカエラがアイゼルへの苦しい想いに悩んでいた時、アイゼルはアイゼルで苦しんでいたのだ。 ミカエラを愛するゆえに冷たくし、愛するゆえに手放すこともできずに苦しんでいたアイゼルと、アイゼルへの愛と愛ゆえに発動する異能により苦しめられていたミカエラ。2人の物語を語るために、時は少し遡る――――
アイゼルの一日はそれなりに忙しい。 22歳の王太子の受け持つ執務は、時間が経つにつれ国王のそれへ近いものになっていく。 朝。 溜息を吐きながら目覚めたアイゼルは、モソモソと起き上がるとベッドの端に腰かけた。 ラハットが見えるようになったアイゼルは、自分の守護精霊へ相談するのが毎朝の日課になっていた。「執務もしなければならないし、政治的なバランスを考えた付き合いも必要だ。私を国王にしたくない勢力による暗殺計画も増えている。ミカエラの命も守らなければいけないのに、その上、恋の駆け引きまで必要なのか⁉」『ウフフ。最後のが一番大切なんじゃないの?』 ラハットは青い光をチカチカさせながらアイゼルの周りをクルクル回りながら飛ぶ。 青い瞳に青い髪の守護精霊は、発光すると青い光を放つのだ。「ラハットがミカエラの命を守ってくれると確約してくれるなら、私は恋の駆け引きに集中するよ」『ウフフ。確約だって。それは無理~』 清廉な愛の守護精霊は、純粋で無邪気な上に正直だった。「分かってるよ。だからせめて暗殺計画くらいはキチンと教えてくれ」『守護精霊は賢いわけでも、万能なわけでもないからね。無理』「だったら、何ができるんだ⁉」『んと……応援?』 精霊な愛の守護精霊は、青色のポンポンを持って振りながらフワフワとアイゼルの周囲を飛んでいる。 キラキラ光りながら青色の房状の玉がフワフワ揺れる様は綺麗だが、アイゼルの悩みを解消してくれるかといえばそうでもない。「私が暗殺を避けることと、ミカエラへの直接的な攻撃を防ぐこと。この2つくらいは叶えてくれよ」『難しいね。でも危険は何度か教えてあげたでしょ?』「そうだが……」 アイゼルは不満そうな表情を浮かべた。『ボク、何回教えてあげたっけ?』 アイゼルは右手を広げるとラハットに教えられた危機の回数を数え始めたが、両手でも足りないことに気付いて途中で止めた。「冷静に考えると回数多いな?」『でしょ? ミカエラの守護精霊が教えてくれた分もあるし。そりゃ多いよ。アイゼルがボクのこと見えるようになるまで、どれだけハラハラしながら見守っていたか、分かる?』「……あっ」『もう、アイゼルは変なところで鈍いんだから。もっとも、アイゼルが国王になる日も近いから、回数は激増しているけどさー』 ラハットが肩をすくめて両手のひ
爽やかな朝。 執務に取り掛かる前のアイゼルは荒れていた。「やっぱりミカエラは狙われた!」 アイゼルは執務室に入るなり、悔しそうに呟きながら上着をソファに叩きつけた。(守りたいから冷たくしていたのに。ちょっと優しくしようとしたらすぐコレだ! 私はどうすればいいんだっ) 立ったままギリギリと奥歯を噛み締めるアイゼルに、護衛騎士の代表として来ていたレクターが報告する。「ミカエラさまにぶつかったのは男爵令嬢だったよ」「なんだって⁉」(政敵かと思ったのに、なぜ令嬢が⁉) 混乱するアイゼルに、レクターは冷静に伝える。「犯人の令嬢は捕まえたよ。暗い色のドレスを着て、物陰に潜んでいたようだ」「なぜそんなことを!」「そりゃアイゼル。お前のせいだよ」 レクターの意外な言葉に、アイゼルは目を見張った。「私のせい、だって?」「ああ。そうだ。お前は婚約者がいながら、他の令嬢にも気のある素振りを見せていたからな」「だからって……」 苦笑を浮かべたレクターは、戸惑うアイゼルに諭すように言う。「貴族にとって王太子の寵愛を受ける娘というものは、価値があるものだよ。側室でも愛妾でも構わない。王太子や国王との繋がりが持てるのなら、貴族は娘の命だって差し出すだろう」「それがミカエラへの襲撃と、どうつながる?」 眉根を寄せるアイゼルに、レクターは説明する。「ミカエラさまを亡き者にすれば、正妻の座を狙えるじゃないか」「あ……」 ミカエラ以外を正妻として迎える気のないアイゼルにとっては、レクターの意見は意外なものでしかない。「お前がミカエラさまへ冷たい態度をとっていれば、正妻の座だって夢じゃないと期待する令嬢がいても不思議じゃない」「だからって……」 戸惑うアイゼルに、レクターは肩をすくめて両手のひらを上にむけると、わざとらしく溜息を吐いてみせた。「嫉妬というものは厄介だ。全く相手にされていないと思っていたミカエラさまへ、お前がドレスを贈るって話が出たんだ。そのせいで焦った令嬢が彼女を狙ったんだろう」「ドレスごときで⁉」 アイゼルが驚いて声を上げると、レクターは上げた手のひらをヒラヒラと動かしてみせた。「お前は女の嫉妬の怖さを知らないな? お前は王太子という立場を除いてもモテるんだから、ミカエラさまが嫉妬されたって不思議はないだろ?」「だから
ミカエラの朝は神殿に向かうことから始まる。 今朝も護衛騎士を引き連れて、神殿への道を歩いていた。(ドレスが届くのは何時かしら? 夜会の時期を考えたら、そろそろ届くころだけれど……) ミカエラは愛しい婚約者から届く予定のドレスを楽しみにしていた。 足取りは自然と軽くなっていく。 (また傷付けられないか、怖いけれど……好きな方からの贈り物が楽しみでない方などいて? いえ、いないはずだわ) ミカエラはアイゼルの姿を思い浮かべた。 スラリと背が高く、整った美しい顔に金の髪。(甘く微笑んだアイゼルさまの、あの青い瞳に見下ろされれば、全てが溶けてしまうのよ。わたくしは、恋に落ちてあの方を愛してしまう。何度でも。何度でも……) ミカエラの意識が甘く染まった瞬間。(え?) キラキラとしたオレンジ色の光が、彼女の視界の端に見えたような気がした。 (虫?) 体にまとわりついてくるような光に気を取られて、ミカエラは立ち止まる。 と、その瞬間。 ドンと背中を押す手の感触がした。「あっ⁉」 目の前には神殿へと続く長い下りの階段がある。 ミカエラの体は、この石造りの長い階段を転がり落ちれば無事では済まないだろう。 だが生地をたっぷり使った見てくれだけは豪華なドレスを着たミカエラは、押された衝撃を受け止めることなどできなかった。 ミカエラの足は地面を離れ、体は宙に浮いた。 (落ちるっ!) 思わずミカエラは目をつぶった。「危ないっ!」 大きな声と共に、安定感のある逞しい体がミカエラを包んだ。(あ、危なかった……) 鍛え上げられた体に抱き留められ、ミカエラは安堵の溜息を吐いた。 ギュッとつぶった目をゆっくりと開くと、オレンジ色の光がキラキラと目の端に映った。(わたくしが、狙われた?) 王太子婚約者であるにもかかわらず、無価値な存在として扱われ過ぎたミカエラにとっては、自分が狙われたという危機的な事態が、いまひとつピンとこない。 男性の怒声が「あいつを追え!」と指示を出し、バタバタと慌ただしく人の動く気配がする。 いつもは静かな神殿への道が騒然としているのを感じながら、ミカエラは呆然としていた。 赤いドレスを常に着ているミカエラは目立つ。 (黒髪に赤いドレスを着ている貴族女性なんて、わた
アイゼルは守護精霊が見えるようになって、秒で馴染んだ。 もともと神殿との繋がりが深く信心深い王族であるアイゼルにとっては、守護精霊を信じないという選択肢はない。(心の底から安心して相談のできる相手が、初めてできた。しかもそれが守護精霊さまだなんて。私はなんて運が良いのだろう!) アイゼルは心の底から喜んだ。 しかし謙虚な心で守護精霊ラハットに対応できた期間もわずかなものだった。 なにしろラハットは精霊で、体はとても小さく、マスコットのお人形のように可愛らしい容姿をしている。 しかもフレンドリーだ。 堅苦しく敬い続けることのほうが難しい。 ベッドサイドへ腰を下ろしたアイゼルとラハットは、他人には知られぬように会話を続けていた。「ラハットさま」『堅苦しいよ。【さま】なんていらない。ただ【ラハット】って呼んで』「そんな守護精霊さまを呼び捨てなんて」『いいって、いいって。これから長い付き合いになるんだもの。そもそもアイゼルから見えるようになったのが今のタイミングってだけで、ボクはアイゼルが赤ちゃんの時から側にいたよ?』 アイゼルは驚いた。「本当ですか? ラハットさま……いえ、ラハット」『本当だよ~。だからアイゼルが大変な立場にいるのも知ってる~。ボクに出来ることなんてあまりないけど、愚痴くらいなら聞いてあげられるから遠慮しないで』「えっ? 守護精霊さま相手にそんな……」 最初は遠慮がちだったアイゼルだったが、身支度前のわずかな間に長年の親友のような関係を築いた。 お悩み相談は愚痴大会になり、悪口大会の様相を見せ始めた頃。 ラハットの絶妙な話題の切り替えによって恋愛相談となった。 ずっと2人を見守っていたラハットにとってはお見通しの内容ではあったが、アイゼルは真剣にミカエラへの想いと現状とを伝えた。『それ、アイゼルが悪いよ』「ラハットは容赦ないな」 そんな会話をする頃には、敬称のとれた呼び方も様になっていた。『確かにアイゼルは狙われているから、ミカエラの秘密がバレたりするのはマズイよ? でもさ彼女への想いについては、かえってミカエラを守る役割も果たしてくれると思うんだ』「えっ? そうなの?」 本気で驚いているアイゼルを、ラハットはジト目で見つめた。『アイゼルは変なところで鈍いから。ミカエラがアイゼルの想い人であることを
少し時は遡る。 襲撃を受けた夜。 アイゼルは、いつも通り天蓋から下がるカーテンを引いて自室のベッドへと潜り込んだ。 護衛はついているが、彼らだって全面的に信用できるかといえば否だ。 自分に関する情報は金になり、普段の様子程度であれば簡単に話してしまう者もいる。(襲撃を受けた夜だからといって油断できない。無傷では不自然だが、弱っていると見られれば絶好のチャンスとばかりに狙われる) 危険は常に側にある。 だが今アイゼルを一番苦しめているのはミカエラへの想いだ。(ミカエラを傷付けたくはない。そのためには、どうすればいい?) 悩みつつベッドの上で目を閉じれば、いつしかアイゼルは眠りに落ちていた。 闇だ。 夢の中でアイゼルは辿り着くべき場所すら分からずに闇のなかを彷徨っていた。(私はどこへ行くべきだ? どうするべきだ?) うなされながらアイゼルは夢の中を歩く。 闇は濃くなっていくが、周りが暗くなればなるほど目立つものがアイゼルの視界に入った。「【あれ】は?」 それは小さな光。 青く小さな煌めきが、ひらひらと闇の中を舞っている。「【あれ】か?」 アイゼルは【あれ】と言いながら、自分が言っている【あれ】が何なのか分からないまま光を追いかけた。 青い光はふわふわとゆっくり動いているように見えて素早い。 その距離はなかなか縮まらず、アイゼルは汗を流す。 だらだらと寝汗をかきながら唸るアイゼルの姿はベッドの上にもあった。 小さな青い煌めきが、そのベッド脇にあるのと同じように。 現実の世界と夢の世界は交錯する。 それはアイゼルの手しか届かない場所で重なり合い、彼の手の届くところへと来た。(この光は私が求めているもの!) アイゼルは必死に手を伸ばす。 闇は闇でしかないのに、妙に重く体に絡みつき、風は感じないのに嵐の中で揉まれているかのような感覚がアイゼルの行く手を阻む。(でも私は【あれ】を掴む!) 実体のない夢の世界は、必死に前へと進もうとしても進まない。 鍛え上げた逞しい体の力を借りることはできないが、アイゼルは精神力で光を目指した。 手を伸ばして。 体全体を伸ばして。 全身全霊をかけて欲する。 (ミカエラのために! 自分自身のために! 【あれ】が欲しい!) 伸ばした手のひらが光をとらえた。 青く小さなその煌
「お招きありがとうございます」 王太子婚約者であるミカエラにとっては、お茶会への出席も大事な社交のひとつである。(気分で出欠を決められるわけではないけれど、今日は来たい気分ではなかったわ) 軽く礼をとったミカエラは、チラリと周囲へと視線を投げた。 今日のお茶会はガゼボだ。 ミカエラは、あの日倒れたガゼボで開かれたお茶会に招かれている。 「まぁ、ミカエラさま。ようこそお越しくださいました。あの日から間もないのに、ありがとうございます。お加減はいかがです?」 賑やかに咲き誇る庭園の花のように、賑やかに飾り立てた貴族夫人が愛想よく出迎えてくれたからといって、ミカエラの気分が上がるわけではない。 しかしミカエラの立場では、断ることが難しい相手は沢山いた。「ありがとうございます、ヴァリーデ公爵夫人さま。おかげさまで元気になりましたわ。ご心配おかけして申し訳ございません」 公爵夫人は声高らかに笑った。「ほほほっ。たいしたことが無くて本当によかったわ。貴女は王太子の婚約者。未来の王太子妃であり、未来の王妃。元気でいてもらわなくてはいけないわね」「はい。承知しております」 王太子が襲撃を受けた日。 結果として貴族たちの噂になったのは、ミカエラが倒れたという話のほうだった。 当たり前の話である。 襲撃されても怪我ひとつ無かった王太子の話よりも、血を噴き出して倒れた令嬢の話の方が面白い。 理由はそれだけだ。 ミカエラが貴族たちの噂になるのは毎度のことであり、時には妙な話も混ざってしまう。 スキャンダルはどうでもいいし、ミカエラのプライドなどいくら傷つけてもよいと考えているからだ。 本当に都合の悪い事実を隠すためには、面白おかしい話が効果的である。 噂は否定するよりも、面白くてもっともらしい嘘とすり替えたらよいのだ。 今回も『何も無いのにいきなり血を噴き出した』という話から『溜まっていた月経血が溢れ出てドレスを汚した』という話に変わっていた。「体調が悪いときには、欠席する勇気も大切よ。断りにくいお誘いもあるでしょうけどね。特に前回のお茶会は、王妃さま主催のものでしたからね。断りにくかったのは分かりますけれど……」「はい……」 庭園でミカエラが倒れたという噂は、瞬く間に広がっていた。 つい一昨日のことであるのに、令嬢たちは皆、そのこと